立ち上げの成功は、成長を保証するものではない
新規事業の立ち上げには成功し、顧客もつき、売上も伸び始めています。それでも社員が増えるにつれて意思決定が遅くなり、現場からの提案が減り、気づけば経営者自身が組織のボトルネックになっている――。成長途上の企業では、こうした現象が珍しくありません。
原因は、経営者の情熱や能力が不足したからではありません。むしろ逆です。創業期を支えた強い成功体験が、組織の成長段階に合わなくなっているのです。
新しい事業を生み出す力と、組織が新しい価値を生み出し続けられる状態をつくる力は、似ているようで異なります。前者に求められるのは、顧客の課題を見抜き、仮説を形にし、素早く試す「プレーヤーとしての力」です。一方、後者に求められるのは、複数の人が挑戦し、学び、意思決定できる環境を設計する「経営者としての力」です。
本稿では、この役割の違いを整理しながら、新規事業やベンチャー企業が成長の壁を越えるために必要な経営の転換を考えます。
新規事業を生み出す人は、優れた「プレーヤー」である
まず確認しておきたいのは、新規事業を生み出す人が、企業にとって極めて貴重な存在だということです。まだ誰も正解を持たない市場に踏み込み、顧客の困りごとを探し、仮説を立て、試作品をつくり、失敗から学びながら前へ進みます。
新規事業の立ち上げには、次のような力が欠かせません。
- 強い好奇心
- 行動力
- 発想力
- 挑戦する勇気
- 失敗しても立ち上がる粘り強さ
- 顧客への共感
こうした力は、手順書を整えただけで生まれるものではありません。つまり、新規事業を生み出す人は、自ら価値を創造する優れたプレーヤーです。
重要なのは、事業を生み出した後、組織として成長させられるかどうかです。
プレーヤーとして成功した人ほど、経営者になると苦労する理由
創業期は、経営者が顧客に最も近く、市場について最も多くの情報を持っています。「この方向で進めよう」「まず試してみよう」「責任は自分が取る」と即断できることは、大きな競争力です。不確実性が高い段階では、意思決定を一人に集めることが合理的な場合もあります。
しかし、企業が成長し、社員が10人、50人、100人と増えていけば、一人がすべてを把握し、すべてを判断することはできません。それでも創業期と同じ経営を続けると、現場には「社長はどう考えるだろう」「最後は社長が決めるだろう」という空気が広がります。
その結果、社員は自律的に考えるよりも、経営者の正解を待つようになります。経営者はますます忙しくなり、意思決定は遅れ、優秀な人材ほど裁量の少なさに不満を感じます。一人の優れたプレーヤーが率いる会社にはなっても、多くの人が価値を生み出す会社にはなりません。
これは創業者の能力不足ではなく、役割が変わったにもかかわらず、過去の成功パターンから抜け出せていない状態です。成長の壁を越えるには、経営者自身が「自分が成果を出す」役割から、「組織が成果を出せる状態をつくる」役割へ移る必要があります。
企業規模が変われば、経営の中心も変わる
創業期には、経営者自身が顧客と向き合い、機会を見つけ、アイデアを形にし、仮説検証を繰り返します。ISO 56001(イノベーション・マネジメントシステム)の枠組みに照らせば、次の活動を経営者が一人で牽引している状態です。
- 機会の特定
- コンセプトの創造・検証
- ソリューションの開発・導入
しかし、従業員が増え、組織が数十人規模へ拡大すると、状況は大きく変わります。経営者一人の判断速度が組織全体の上限になります。そこで経営者に求められるのが、次のような経営基盤を整えることです。
- ビジョンや戦略を示すこと
- 権限を委譲すること
- 意思決定の基準を整えること
- 情報や知識を共有すること
- 人材を育成すること
- 挑戦から学ぶこと
ここで見落とされやすいのが、個人の能力と組織の能力は別物だという点です。経営者ができることを、そのまま社員に説明すれば再現できるとは限りません。暗黙知を言語化し、役割と権限を定め、必要な情報が届く経路を整え、学習が次の意思決定に反映されるようにする必要があります。
成長の停滞は、ISO 56001の視点から可視化できる
創業者が機会の特定から意思決定までを担う状態では、事業を素早く立ち上げられる一方、組織規模の拡大とともに限界が表れます。ISO 56001の観点に沿って組織を診断すると、リーダーシップ、計画、支援体制、評価、改善など、どこに不足があるのかを整理できます。
こうした組織の状態は、当社の「IMS適合アセスメントサービス」を通じて可視化できます。
プレーヤー型経営をアセスメントした場合のイメージ
経営者自身が、機会を特定し、アイデアを出し、素早く意思決定を行うことで顧客が求める価値を提供します。しかしこの状態での成長には限界があります。持続的に成長するためには、経営者個人の能力に依存した状態から、組織全体で価値を生み出せる状態へ転換しなければなりません。

プレーヤー型の意識のまま仕組みをつくった場合のイメージ
組織規模が大きくなると、経営者は担っていた機能を他者に任せることになります。十分なイノベーションの仕組みづくりができないと、機会の特定からアイデア創出などの機能が低下するだけでなく、意図、戦略、目標などが現場に伝わりにくくなり、組織全体の生産性が低下してしまうのです。

なぜ「イノベーションは仕組みでは起こらない」と言われるのか
「イノベーションは仕組みでは起こらない」という主張には、一理あります。仕組みが人に代わって問題意識を持ち、挑戦への覚悟を生み出すわけではありません。
ただし、この議論は「個人が最初のアイデアを生み出す瞬間」と「組織が継続的に価値を生み出す状態」を混同しています。社員が100人いる会社で、複数の社員がそれぞれの立場から顧客の変化を捉え、仮説を立て、適切な範囲で試し、結果から学べるでしょうか。できないのであれば、その会社には優れたイノベーターが一人いるだけで、組織としてイノベーションを生み出せる状態にはなっていません。
仕組みは、ひらめきを代替するものではありません。ひらめきが評価され、実験され、必要な資源を得て、価値として顧客や社会へ届くまでの摩擦と属人性を減らすものです。
「プレーヤー」の視点と「経営者」の視点は異なる
新規事業責任者は、自ら仮説を立て、顧客と対話し、一つの事業を前へ進め、価値を生み出すことが役割です。そのため、「自分ならできる」という感覚は重要な武器になります。
一方、経営者は「組織が価値を生み出せる状態をつくる」ことが仕事です。自分が最も優れたアイデアを出したかどうかではなく、組織全体が顧客価値を考え、挑戦し、学び、成果を次の活動へつなげられる環境を整えられているかどうか、という視点が欠かせません。
経営者がプレーヤーの視点のまま経営を続けると、会社は「社長がいなければ何も決まらない組織」になります。経営者が組織を主役に据えられるようになると、社員一人ひとりの試行錯誤が組織の知識として蓄積され、次の挑戦に再利用されるようになります。
ISO 56001は、創造性を「規格化」するものではない
2024年に発行されたISO 56001は、イノベーション・マネジメントシステムを確立し、実施し、維持し、継続的に改善するための要求事項を示す国際規格です。ここで対象となるのは、アイデアが生まれる瞬間そのものではありません。組織が継続的かつ効果的にイノベーションへ取り組むための経営基盤です。
規格が求めているのは、組織の意図や戦略を明確にし、必要な資源を配分し、挑戦を支える文化をつくり、人材の力量を高め、活動を評価し、学習を次の改善へつなげることです。つまり、創造性の「答え」をそろえるのではなく、組織が問いを立て、試し、学び続けるための土台を整えます。
「仕組みにすると画一的になり、創造性が失われる」という懸念もあります。しかし、問題は仕組みの有無ではなく、どのような仕組みをつくるかです。承認手続きを増やし、失敗を避ける仕組みは挑戦を阻害します。一方、検証可能な範囲を定め、素早く学べる仕組みは、挑戦する人を守り、次の行動を促します。
規格化するのはアイデアではありません。価値創造が、個人の偶発的なひらめきや属人的な判断だけに依存しないよう、経営の前提を整えるのです。
経営者の仕事は「価値創造の確率」を高めること
新規事業担当者にとって、一つの事業を成功させることは大きな成果です。しかし経営者には、今年だけでなく、来年も、5年後も、10年後も、企業が価値を生み続けられる状態をつくる責任があります。
そのために必要なのは、過去の成功をそのまま再現することではありません。環境が変わっても、新しい成功が生まれる確率を高めることです。
- 市場や社会の変化を継続的に捉え、経営判断へ反映する
- 顧客の声や現場の気づきを、部門を越えて共有する
- 失敗を個人の責任で終わらせず、組織の学習へ変える
- 挑戦する人を評価し、実験に必要な時間と資源を確保する
- 既存事業と新規事業の双方に、戦略に沿って資源を配分する
- 意思決定の基準と権限を明確にし、経営者不在でも前へ進める
これらは、派手な新製品の発表に比べれば地味な活動です。しかし、地味な活動を継続できる企業ほど、偶然の成功に依存しなくなります。経営者の仕事は「成功する事業を一つつくること」から、「成功する事業が生まれ続ける状態をつくること」へ変わっていくのです。
「イノベーション」とは「人」ではなく「組織能力」である
イノベーションは人から始まります。しかし、持続的な成長を生み出すのは、人の力を組織の学習と再現可能な経営プロセスへ変換する能力です。
継続的に価値を生み出す企業では、優秀な人材がいるだけでなく、その人が得た知識や判断基準が組織に残ります。例えば、顧客との対話から得た示唆、失敗した実験の条件、投資判断の理由、改善の着眼点などです。これらを会議やレビュー、人材育成の場で共有し、記録やデータとして蓄積することで、個人の知見が組織の能力へ変わっていきます。
重要なのは、すべてをマニュアル化することではありません。暗黙知を完全に形式知へ変えることはできません。それでも、何を重視して判断したのか、どの仮説を検証したのか、なぜ続ける・やめると決めたのかを残せば、次の人はゼロから考え直さずに済みます。
人材の流動性が高まる現在、特定の人に依存した経営のリスクは、顕在化しやすくなっています。キーパーソンが異動・退職した途端に活動が止まる組織は、個人の能力を活用していても、組織能力として定着させられていません。
経営者が自社に問いかけるべき6つの質問
「人か、仕組みか」という二者択一ではなく、人の力を生かす仕組みになっているかを確認することが重要です。まずは、次の質問に答えてみてください。
- 経営者が不在でも、重要な意思決定が適切な速度で進むか
- 顧客や市場の変化は、担当者の手元で止まらず組織に共有されているか
- 失敗した挑戦から得た学びは、次の案件で再利用されているか
- 社員は、どこまで自分で判断し、試してよいかを理解しているか
- 既存事業と新規事業への資源配分には、共通の判断基準があるか
- 挑戦した人が、結果だけでなく学習や貢献も含めて評価されているか
答えに迷う項目が多いほど、経営者個人の力量が組織の限界になっている可能性があります。必要なのは、経営者が現場から離れることではありません。経営者にしかできない判断へ集中し、それ以外の意思決定の権限と、学習の仕組みを組織へ移していくことです。
おわりに――仕組みが生み出すのは「ひらめき」ではない
「新規事業を生み出す人」と「イノベーションを生み出す経営者」は、似ているようで、まったく異なる役割を担います。
前者は、自ら価値を創造するプレーヤーであり、後者は、組織全体が価値を創造し続ける環境を設計する経営者です。
優秀な起業家が、必ずしも優秀な経営者になるとは限りません。一方、優秀な経営者が、最も優れたアイデアマンである必要もありません。経営者に求められるのは、自分が主役になることではなく、社員、顧客、取引先、そして社会とともに価値を生み出せる状態をつくることです。
ISO 56001(イノベーション・マネジメントシステム)が目指しているのも、まさにその姿です。創造性そのものを管理するのではなく、創造性が発揮され、その成果が継続的な価値へつながる経営基盤を整えることを求めています。
仕組みが生み出すのは「ひらめき」ではありません。
仕組みが生み出すのは、「ひらめきが何度でも価値へ変わる組織能力」なのです。
これからの経営に必要なのは、「優秀な人材を探すこと」だけではありません。優秀な人材が育ち、挑戦し、学び、その知見が組織に蓄積される環境をつくることです。イノベーションを一人の天才が起こす奇跡で終わらせず、企業の能力へ変えられるか。その転換こそが、新規事業やベンチャー企業が成長の壁を越える鍵になります。
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