ISO56011(イノベーションマネジメントのための能力フレームワーク )について
企業のイノベーション施策では、長く「誰に任せるか」が中心課題になってきました。
- 新規事業経験者を採用する
- 社内公募で意欲のある人を集める
- デザイン思考やリーンスタートアップの研修を行う
- 外部の起業家や専門家を招き、社員に刺激を与える
こうした取り組みは今も重要です。しかし、ここには一つの弱点があります。
- 優秀な人を集めても、その人が異動・退職すれば活動が止まる
- 研修を受けても、実務で使われなければ組織能力として残らない
- 新規事業担当者が孤軍奮闘し、PoCまでは進んでも、事業化や全社展開になると既存部門との調整や経営資源の配分で止まる
つまり、イノベーションを「個人の能力」の問題として扱うだけでは、継続的な価値創出にはつながりにくいのです。
この問題に対して、国際標準の世界で新しい動きが始まっています。
それが「ISO 56011 Competency framework for innovation management — Guidance」です。イノベーション・マネジメントに必要な人的力量を共通フレームワークとして整理しようとする規格です。
2026年8月19日現在、ISO 56011は正式な国際規格ではありません。ISO/DIS 56011、すなわちDraft International Standard(国際規格案)の段階にあり、ISOの開発ステージでは40.20です。2026年8月12日に、12週間のDIS(国際規格案)投票が開始されました。ISOが公開している概要によれば、組織がイノベーション活動を効果的にマネジメントするために必要となるskills、behaviours、competenciesを示し、イノベーション・マネジメントシステム(IMS)の確立、実施、維持、継続的改善までを対象とする79ページの規格案です。
ISOの通常の開発プロセスでは、委員会原案(CD)の後にDISが各国のISOメンバーへ回付され、投票とコメントを受けます。必要に応じてFDIS(Final Draft International Standard)を経て、最終的に国際規格として発行されます。DISで承認され、技術的変更がなければFDISを省略して発行段階へ進む場合もあります。したがって、現段階ではISO 56011の考え方や方向性は見えてきたものの、最終的な力量項目や表現は変更される可能性があります。
ISO 56000シリーズは「アイデアの出し方」の規格ではない
ISO 56011の意味を理解するには、まずISO 56000シリーズ全体を見る必要があります。
ISO 56000シリーズは、イノベーションを偶然や個人のひらめみに依存させず、組織として継続的に価値を創出するためのマネジメント体系です。知的財産、戦略的インテリジェンス、測定、パートナーシップなど、イノベーション・マネジメントに必要な領域を幅広く扱っています。
| 規格 | 主なテーマ | 2026年8月19日時点の状況・位置づけ |
| ISO 56000:2025 | イノベーション・マネジメントの基本概念と用語 | 発行済み |
| ISO 56001:2024 | イノベーション・マネジメントシステム(IMS)の要求事項 | 発行済み。 IMSの確立、実施、維持、改善に関する要求事項を規定 |
| ISO 56002:2019 | IMSの構築・運用に関するガイダンス | 発行済み |
| ISO 56003 | イノベーションパートナーシップに関するガイダンス | 発行済み |
| ISO/TR 56004 | イノベーション・マネジメントのアセスメントに関するガイダンス | 発行済み |
| ISO 56005 | 知的財産マネジメントに関するガイダンス | 発行済み |
| ISO 56006 | 戦略的インテリジェンスに関するガイダンス | 発行済み |
| ISO 56007 | 機会とアイデアに関するガイダンス | 発行済み |
| ISO 56008 | イノベーション活動の測定に関するガイダンス | 発行済み |
| ISO/TR 56009 | 測定の実装例 | 発行済み |
| ISO/TS 56010 | ISO 56000の概念の例示 | 発行済み |
| ISO 56011 | イノベーション・マネジメントに必要な人的力量のフレームワークに関するガイダンス | 開発中。DIS 段階 |
| ISO 56012 | イノベーション・エコシステムのマネジメントに関するガイダンス | 開発中。複数の企業、大学、行政、コミュニティーなどが関わる価値共創の仕組みを対象 |
| ISO 56013 | イノベーション・ポートフォリオのマネジメントに関するガイダンス | 開発中。複数の活動の選択、優先順位付け、資源配分、リスク管理、評価などを対象 |
ここから見えてくるのは、ISO 56000シリーズが「アイデアを生み出す技法集」ではないということです。
経営として何を目指すのか。どのような方針と戦略を持つのか。どの機会に資源を配分するのか。外部組織とどう協働するのか。知的財産をどう扱うのか。活動をどう測るのか。そして、その仕組みを動かす人にはどのような力量が必要なのか。
ISO 56011は、この体系の中で最後の問いに正面から向き合う規格だと考えると分かりやすいでしょう。
ISO 56011が問うのは「誰が優秀か」ではなく「何ができる必要があるか」
従来、イノベーション人材という言葉は非常に曖昧に使われてきました。
- 発想力がある人
- 新しいものが好きな人
- 行動力がある人
- 起業経験がある人
- 社内調整が得意な人
- 技術に詳しい人
こうした特徴はいずれも有用ですが、それだけでは「イノベーション・マネジメントに必要な力量」を説明したことにはなりません。イノベーションは、アイデアを出すだけでは完結しません。例えば、次のような活動を遂行する力量が求められます。
- 外部環境から機会を見つける
- 顧客や利害関係者のニーズを理解する
- 仮説をつくる
- 実験する
- 学習する
- 必要に応じて方向転換する
- 複数のテーマを比較し、限られた経営資源を配分する
- 社内外の関係者と協働し、知識や知的財産を扱う
- 事業化への障害を取り除く
- 最終的に価値を実現する
そして、これらを一回限りの活動で終わらせず、再現可能な仕組みとして継続的に改善していく必要があります。
ISO 56011の公開概要が「skills」だけでなく「behaviours」「competencies」を対象としていることは、この点で重要です。単に知識を持つことや研修を修了することではなく、イノベーション活動を効果的にマネジメントできる力量を扱うことが規格の目的として示されています。
「研修管理」から「力量管理」へ
こうした考え方は、企業の人材育成のあり方にも変化をもたらす可能性があります。
これまでは、「新規事業研修を何人が受講したか」「デザイン思考研修を実施したか」といった教育施策の実施状況が、人材育成の成果として扱われることが少なくありませんでした。しかし本来、研修を受けたことと、必要な力量を身につけていることは同じではありません。
求められるのは、役割ごとに必要な力量を定義し、現状とのギャップを把握したうえで、教育、実務経験、配置、採用、外部専門家の活用などによって不足を補うことです。さらに、その力量が実務で発揮されているかを確認する必要があります。
実は、この流れはISO 56011によって突然始まったわけではありません。
ISOにはすでにISO 10015:2019(力量マネジメント及び人々の能力開発のための指針)があります。この規格は、組織が力量管理と人材育成の仕組みを確立、実施、維持、改善するためのガイダンスを提供しています。つまり、研修を実施すること自体ではなく、組織成果につながる力量をどのように管理するかを扱っています。
この考え方は、ISO 56011によって突然生まれたものではありません。ISOにはすでに、力量マネジメントと人材育成を扱うISO 10015:2019があります。また、人材マネジメントのISO 30400シリーズにも、将来必要な人材・能力の計画、学習・育成、スキルや能力の測定などを扱う規格があります。
この既存体系の中にISO 56011を置くと、その役割がより明確になります。ISO 56011が「イノベーション・マネジメントにどのような力量が必要か」を示し、既存の関連規格が、その力量をどう管理し、育成し、計画し、測定するかを補完する関係です。
つまり、人材育成は「研修を実施すること」から、「経営戦略の実現に必要な力量を組織として整えること」へと、視点を広げていく必要があります。
「優秀な人材を採る」だけでは解決しない
例えば、ある企業が3年後までに新規事業を複数立ち上げたいとします。
従来であれば、「新規事業経験者を採用しよう」「若手を選抜して研修しよう」という話になりがちです。しかし、力量管理の考え方では、まず必要な活動や力量を明らかにすることから始めます。
- どのようなイノベーション戦略を実現するのかを決める
- そのために必要な活動を定義する
機会探索、顧客理解、実験、技術評価、ビジネスモデル設計、知的財産、パートナーシップ、ポートフォリオ管理、事業化など - 「どの役割に、どの力量が、どの程度必要か」を考える
- 現在の組織が保有する力量を評価し、不足をどう補うのかを検討する
育成、採用、他部署から配置、外部企業や大学、専門家との協働など
一人の万能な人材に、すべての力量を求める必要はありません。
顧客探索が得意な人、技術検証が得意な人、事業設計が得意な人、知的財産に強い人、社外との協働を設計できる人、ポートフォリオを管理できる人。それぞれの力量を組み合わせ、チームとして必要な能力を構成することができます。
ここに、個人のスキル管理と組織能力管理の違いがあります。
デザイン思考やリーンスタートアップの位置づけも変わる
力量から逆算して考えると、デザイン思考やリーンスタートアップなどの方法論の位置づけも変わります。
これまでは、「デザイン思考を導入する」「リーンスタートアップを学ぶ」「アジャイルを取り入れる」「エフェクチュエーションを学ぶ」といったように、方法論の導入そのものが目的になってしまう場合もありました。
しかし、力量を起点に考えれば、方法論は目的ではなく、必要な力量を高めるための手段になります。
- 顧客や利用者を深く理解する力量を高めるために、デザイン思考を活用する
- 仮説検証と学習の力量を高めるために、リーンスタートアップを活用する
- 不確実性の高い状況で行動し、利用可能な手段から可能性を広げるために、エフェクチュエーションを学ぶ
- 反復的に価値を届ける力量が必要であれば、アジャイルを活用する
このように、「何の研修を受けるか」ではなく、「どの力量を高めるために、どの方法を活用するか」という視点が重要になります。
人材管理から「能力のポートフォリオ管理」へ
さらに重要なのは、力量を個人単位だけで捉えないことです。組織として必要な能力が、必要な場所に、必要なタイミングで存在しているかという視点が求められます。
例えば、あるイノベーションテーマでは技術探索の力量が重要でも、別のテーマでは規制対応や顧客共創の力量が重要になる場合があります。また、探索段階と事業化段階では求められる力量も異なります。事業ポートフォリオが変化すれば、必要な能力構成も変わります。
そのため、人材管理も「人数を管理する」だけではなく、組織としてどの能力を、どの程度保有しているかを把握する視点が重要になります。
例えば、次のような観点です。
- どの能力を社内で保有しているか
- どの能力が不足しているか
- 今後、どの能力の重要性が高まるか
- どこまでを社内で保有し、どこからを外部との協働で補うか
- 特定の個人に集中している能力が、事業継続上のリスクになっていないか
こうした情報を、採用、育成、配置、プロジェクト編成、外部連携、後継者育成などにつなげていくことで、組織全体の能力構成を継続的に見直すことができます。
この考え方が、「能力のポートフォリオ管理」です。
最後に問われるのは「人材の質」ではなく「経営の設計力」
ISO 56011の登場を「新しいイノベーション人材のスキル表ができる」とだけ捉えると、その意義を十分に捉えきれません。
重要なのは、個人が持つ力量を、組織として継続的に活用できる能力へとつなげることです。優れた力量を持つ人材がいても、適切な役割や権限、必要な経営資源、協働する体制が整っていなければ、その力を組織として十分に発揮することはできません。
ISO 56001がIMSという「経営の仕組み」の要求事項を示し、ISO 56011がその仕組みを動かすために必要な人的力量のフレームワークを示そうとしていることは、この関係を理解するうえで重要です。
これからの企業に求められるのは、「優秀なイノベーション人材を見つける力」だけではありません。必要な組織能力を定義し、それを役割や力量に落とし込み、育成、採用、配置、外部連携などを通じて補完しながら、実務の中で発揮できる状態をつくることです。
イノベーションを特定の個人の能力に依存させず、組織として継続的に価値を生み出せる状態をつくる。
ISO 56011の登場は、人材育成に関する規格が一つ増えるというだけではありません。企業が「誰を選ぶか」だけでなく、「どのような力量を、どのように組織能力として活かすか」を考える段階へ進んでいることを示す、一つの象徴といえるでしょう。
ISO 56001の考え方に沿ったイノベーションの仕組み化は、システムコンシェルジュにご相談ください
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